「『正しい』韓国語を話したい」が、実は上達から遠ざかってるとしたら?

こんにちは、辛ラーメンに乾燥キムチ入りのが出たので
さっそく試食してみたちょなぱだです。
別のキムチも入れて食べたので
結局そのものの味はよくわかりませんでしたw
さて、今日は寒いから特別に、
ぼくのブログのナゾを1つ、
解き明かしてしまおうかな。
ブログのナゾなんてどうでもいいんだけど、
韓国語の上達に役立つことでもあるからね。
えっと、ぼくのブログって、
すごい日本語の間違いが多いの、
気づいてました?
まぁ間違いというか
教科書的じゃない言葉遣いとゆうか。
そう、この「とゆうか」とかね。
あとは~、そうね、
「雰囲気」を「ふいんき」って書いたりとか。
あとは探してもらえたら、
間違いは
数限りないと思うんだけども。
で、ひとつここでセキララな告白をしておくと。
ぼく昔、小論文の添削とかやってたんだよね。
こーこーせーが書いた文章を見て、
「はい、ここの『あと、』は『そして、』に直しましょう」
とか
「ここでの『けど』は逆接の意味で使われてないので、
 順接の接続詞である『から』のほうが適切です」
とかとか。
そういうレベルで日本語の矯正を(矯正も)してたんだよね。
つまり何が言いたいかというと、
いわゆる「正しい日本語」を書こうと思えば、書ける。(たぶん 汗)
ついでに、日本語教師になる学校にも通ったし
試験も通った。
だから普通の人よりは日本語に詳しいかもしれない。
(し、そうじゃないかもしれない)
でも、このブログでは間違った日本語を
たくさん使う。
なぜか?
なぜでしょー?
→【A】ちょなぱだは昔よりバカになったから

 【B】ちょなぱだは昔よりアホになったから

 【C】ある思いを伝えるため
はい、どれを選んでも正解です!w
どれも正解なんだけど、
「【C】ある思いを伝えるため」
が異色だからそれに沿って話を進めると、
そうなんです。
一応これにもメッセージを込めてるつもりなの。
間違いの多い文章を書いてる理由。
それは、
「言葉なんて、そんなもんでいいんだよ」

ということを伝えるため。
「しょせん、コミュニケーションの道具にすぎないんだもの」(みつを)
ということを伝えるためなの。
特に、
人と話したい

思いを通わせたい
という理由で、外国語を学んでいる場合には。
そういうときって、
「はい、今あなた間違ったーー
 そこは오じゃなくて어でしょ!」

「それは未来の話なんだから을 거예요って言うのが正しいんです ブーー不正解」
っていう話は必要ない。
だって、間違ったって、意味が通じるから。
相手が何を言いたいのか、わかるからね。
だったら、細かいことは、さほど重要じゃない。
それよりも、間違いを恐れて、
話すチャレンジをしなくなっちゃうことが
もっと大きな悲劇だから。
今ぼくはそんなことを言ってるけども。
こう言っているのにも理由がありまして。
ぼくは昔、完璧主義でした。
外国語を学ぶのは好きだった。
それも、できるだけ完璧にしたいと思ってた。
一個の文法の間違いもなく、
一個の単語の間違いもなく、
「正しく」て「きれい」な言葉を
話せるようになりたいと思ってた。
そんなふうに自分が完璧主義だったぼくは
ひとが話す韓国語にも、完璧を求めるようになっていた。
語学学校のクラスメートが話す韓国語を聞いては、
「あ、今のところ文法ちがうんだけどな」
とか
「発音もうちょい練習すればいいのに」
なんて思ってた。
するとどうだろう。
自分が話すときにも、
ほかの人に監視されてるように思っちゃうんだね。
だから
間違っちゃいけない
間違っちゃいけない
間違っちゃいけない
ってのが常に頭の中に張り付くようになって、
なかなかしゃべるのが難しいと思うようになってしまってた。
するとどうなる?
そもそも学習者が、最初から完璧に話せるはずがない。
間違いを繰り返しながら上達していくものでしょ?
チャレンジ→間違う→学ぶ→チャレンジ→間違う→学ぶ
の繰り返しで成長していくはず。
でも、そもそものチャレンジの回数が少なくなったら


上達のチャンスも失われるということなんだね。
ぼくが崇めている多言語学者の先生がおっしゃってたことだけども
「正しさ」を求めるのをやめた瞬間に、
語学は飛躍的に上達する
のだそう。
「間違い」→「上達」
のサイクルがわかってきて
むしろ「間違い」が快感になると、
みるみる上達するのだそうだ。
(それに、むずかしい言い方をすれば
 そもそも言葉なんて
 現象に恣意的なラベルを貼ったに過ぎないから
 どう頑張っても「正しく」ありようがない。)
ぼくは、外国語を、コミュニケーションのツールだと
とらえています。
外国の人と、よりスムーズに交流するための
道具にすぎないと考えています。
だったら、意味が通じればそれでいいじゃない。
ぼくの知人は、町で困ってそうな外国の人を見かけたら、
進んで声をかけるのだそう。
彼は何の外国語もできないんだけど。
それでも、
「何か困ってることはないですか?」
とかなんとか、声をかけるらしい。
その彼いわく、

「助けようとしてくれてるのだから、
 いくらデタラメな英語だろうが、
 嫌な気持ちはしないだろう。

 それよりも、困っているのを
 助けてあげるほうがダイジだから」
とゆってたよね。
その彼がなんともかっこよく見えた日よ。
自分に「正しさ」を求めると
つい、ほかの人にも「正しさ」を求めるようになっちゃう。
(ぼくがそうだった)
でも、「正しさ」を求められ続けるのって、
実はすごく窮屈(きゅうくつ)かもしれない。
1つの間違いも許されない
そんな世界、ぼかぁいやだなあ。
もちろん!
語学の勉強をしてるんだから、
間違いを直しまくる時期があってもいい。
ぼくも先生に
「ぼくの書く・話す内容で間違いがあったら1つ残らず全部教えてください」
って言ってたこともあった。

(間違いが多すぎてタメ息をつかれたこともあったww)

そういうわけで
・「正しさ」からの脱出

・そもそも何のために韓国語やってるの?を考える

・間違いを許容し始めると、途端に上達する
という話でした。
これもぼくの個人的な考え方(スタンス)だから
自分のやり方に確信を持ってるならもちろん気にしないでね。
ではでは~。

P.S.

ぼくが語学を学ぶ人を応援したい
という理由の中の大きなものに

みんなの「自己効力感」を育てたいから

というのがあるの。

「自分、できるぞ」

って思える気持ちのことね。

そういう思いがあるから、
「正しい」「間違い」
っていうレベルで止まるんじゃなくて、

できるだけ、「自分、できるぞ」
って思えるやり方で進めてほしいと思ってるの。

このことについては、また今度くわしく、
きっと書く。

すごく間違いの多い文章で書く←

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